小岡共同墓地管理委員会による保存経緯

 

 当地近隣の共同墓地の多くは、埋葬(土葬)時代では、遺体を埋葬し、自然石である小石を積み上げ、中央に少し大きな拝み石を設置するなどして墓としていました。そして、埋葬から火葬に遷移する過程で、埋葬墓を整理し新たな石墓用地として供給したため、現代に至ってはその跡形はほぼ見られなくなっています。
 ところが、当、小岡共同墓地と、高瀬町の一部で埋葬墓と石墓の共存が見られます。この理由が、「両墓制(りょうぼせい)」の存在です。小岡共同墓地は、火葬に移りつつある時代に「両墓制」を文化としてとらえ、後年に亘って、これを保存する方向で管理されました。
保存管理を具体化したのは、昭和62年4月1日施行の「小岡墓地管理運営規定」です。この規定は、元県会議員で当時自治会長を務めた2組のY.Yさんが策定し、同氏のリードのもとで施行されました。規定の組織は、自治会長が管理運営委員長を兼任するとされ、その後長年に亘り管理運営が維持されました。
 そして、更に後年、自治会の民主化、世代交代などを背景に一部に規定の形骸化がみられたことから、改めて平成27年4月1日付にて改定「小岡墓地管理規定」を施行するに至っています。
要するに、小岡共同墓地は、昭和62年以来「両墓制」を文化保存する方向を明確化して管理運営されているという事です。

 

両墓制(りょうぼせい)の保存記事一覧

昭和56年9月1日発行 常磐公民館文化部編集 「常磐誌」 第三篇第三章第五節 小岡のサンマイは、新しくできた仁尾バイパスの稲積橋の麓にある。バイパスと交叉しもうすぐ海に出る財田川の土手から観音寺に入る旧道とのまん中に少し小高くなった所にある。白い河原石を盛り上げたサンマイが稲穂の波のむこうに秋の陽を受けてこんもりともりあがっていた。 秋祭りになると村境のその道をチョウサがいく。チョウサの後について...

第 一 条 「 名 称 」この規定は、小岡墓地管理運営規定と称す。第 二 条 「 目 的 」この規定は、小岡墓地(以下墓地と称す)の管理運営を円滑にすることを目的とする。第 三 条 「 権 利 、義 務 」1.墓地にかかる権利とは、永久使用権を言い、その権利に伴い、墓地の管理運営についてもその責任を負う。2.墓地永久使用権の対価は、小岡自治会会員を継続する者に対しては永久使用料として、役員会におい...

 昭和7年生れのある女性の話 「そうよ。昔の埋葬いうたら、墓地の敷地が限られとるきん、古い方から古い方から使こうて穴を掘ってゆくんよ。ほじゃきん、前の人の骨が出てくることもあるよ。それでも講中の人は、拾い上げといて新しい棺桶を入れる時に丁寧に一緒に埋めるんよ。講中の人たちは、そんな仕事をしてくれるから、皆で充分にもてなすんよ。」「出里のじいちゃん時も(出里柞田町)骨は出てきたよ。穴掘る人は気の毒に...

 一般には、仏教は死体の穢れを嫌わない宗教と言われています。神道は、穢れを嫌う宗教で死という穢れを扱えないことから仏教が死に関する儀礼を担ったと言えます。イスラム教は、穢れへの対処法を細かく規定しており、神に祈る際の身の清め方とか豚肉を食べないという食物規定などが有名です。キリスト教は、穢れの感覚があまりなく食物規定も礼拝時の定めもありません。自ら清める力を持っていて穢れを恐れない宗教です。大くく...

 平安末から鎌倉初期の一般庶民では単に棄てていて、中世摂関家ですら埋めている場所すら分からない状態で詣り墓で追善供養していたとの記録があり、その後、放置されてた死体が病原菌の巣となり疫病の源と解ってきて埋めるという衛生感覚が生まれたようです。その後、長い時を経て、宗教が死への恐れとか穢れの感覚を整理し、それぞれの土地の自然条件なども加わり、様々な埋葬文化を育んできたものと思います。 埋葬(土葬)文...