日本の国のストーリー

「神社へのお詣りは宗教ではありません」と言ったら叱られるでしょうか? 
 私の息子世代(30歳台)では、大学受験の合格祈願こそ行かなかったものの、結婚式は神前式、子どもの出生ともなると安産祈願、お宮参り、七五三と自然に神社に向かっています。そして身近に葬儀があれば仏教の宗派等を意識し、それぞれの特色についても認識していて、それも自然に受け入れている様です。仏事は宗派を意識するけど神社詣りをことさらに宗教とは意識していない。自然からの恵み、生命の不思議などを感じた際には、何となく謙虚に感謝している。こういう心は、日本人として誇るべきDNAだと思います。若い世代では、この様な人が多いのではないでしょうか。また、その様な「美しく誇るべき心」とは全く異質な悪しき時代に「神社神道は宗教にあらず」とした説があったのをご存じですか。美醜おりまざる歴史を、非常に簡単にしか記載できませんが、以下に整理してみましょう。
仏教伝来前の古神道は高度な信仰
 日本には、西暦552年(538年説アリ)に仏教が入ったと言われます。仏教渡来以前の古代日本の信仰のことを、民俗学では「固有信仰」、一般には「古神道(こしんとう)」と言います。この呼び方は、渡来してきた僧が名づけたもので、当時の日本側には自分達の信仰が「神道」であるとの自覚はなかったのです。しかも、名づけた「神道」とは仏教を伝播した中国大陸側からすると蔑視している言語でした。古代中国大陸の民族宗教である「道教」は、「鬼道→神道→真道→聖道」と段階的に発展してゆくもので、日本に仏教が伝来した頃、道教は既に仏教とともに聖道の域に達していたことから、日本の固有信仰は、教義も教典も持たないとみて、まだ発達過程の低俗宗教と考え、下から二つ目の「神道」と名づけました。当時の日本固有の信仰は、自然崇拝・精霊崇拝などのアニミズム(=animism=生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方)が在り、先祖崇拝としての命・魂・霊・神などの生命概念、常世(とこよ)と現世の世界観、神域・結界の存在や祈祷(きとう)占いなどの祈念、政治(まつりごと)及び神話を含む国と人の創世などに深くかかわる優れたものだったと想います。「カムナビ」と言って形の美しい山、神々しい高山が、神域であれば、岩や石、しめ縄で囲った結界でも、何か目印になるものがあれば神々のよりしろ(依代)となり、それらが信仰の対象になりました。社殿を持たず拝殿のみ持つ形態もあり、後に、依代が社殿に祀られると神社となりました。そして、信仰において「祭り」という神事が現代に伝承されています。しかも「祭り」の基本構造は、神を迎え→神を饗応し→神を送る、であり、この祭りは、国や共同体の政策と農事を決めるなどマツリゴトを行い、且つ、一体感連帯感を養い団体の活力を高める機能を持つことは、現代に至ってもそんなに変わらないと感じます。仏教伝来前の神は、特定の氏や村と結びついた素朴ながらも高度な信仰だったのです。
神仏習合へ
 仏教が伝来すると、奈良時代初頭には、神仏関係が緊密化し、平安時代には神前読経とか、神宮寺(じんぐうじ)創建が広まりました。神宮司とは、神社に附属して建てられた仏教寺院や仏堂を言いますが、神仏は同一の信仰体系の中におくものの、あくまでも別の存在と認識されていていました。社会構造が、律令制の導入からその衰退に向かう過程において、神と仏は同じものとして信仰する思想「神仏習合」が現れ、さらにその「神仏習合」観念は、やがて、神道の「八百万の神々(やおよろずのかみがみ)」は、様々な仏の化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとした、仏本体説の「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」が台頭しました。鎌倉時代には、真言宗(密教)の立場から神仏習合思想の神道解釈である「両部神道」が理論化されたり、神道側からは神道を主とする反本地垂迹説が出されました。さらに戦国時代は、天道思想による「諸宗はひとつ」とする枠組みが形成され、江戸時代に入ると神道の優位を説く思想が隆盛をみました。
もちろん、歴史中、思想を別にする新たな信仰とか宗教は多数生れます。例えば、本地垂迹説により先頭に立ったのが、八幡神や日吉神、熊野神など早くから仏教と深いかかわりがあった神々であり、とりわけ熊野の神々は、修験道と結びつくとともに院の帰依を受け院政期以降に「熊野信仰」を全国に広げました。然し、大きく「神道」全般の動きとしてとらえれば、仏教伝来から明治維新までの日本は、1000年以上に亘り「神仏習合」の中にあったと言えるのです。
神仏分離へ
 さて、神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別させる「神仏分離」の動きとしては、江戸時代の一部、岡山藩・水戸藩・会津藩など儒教が興隆した藩では、神仏分離政策が行われ、出雲大社は17世紀に実施されたようです。
 然し、もっと大きな動きとして、日本が2百年以上にも亘る鎖国を終え、欧米諸国の文化・価値観にふれ、富国強兵の新しい日本を作ろうとしたとき、政治家たちは、日本人の生活に深く馴染んでいた神道を日本人の精神的な規範にしようと考えました。神社などを整理し国家の支配下で活用しようと考えたのです。狭義の神仏分離は、このときの明治維新による公的なものを言います。明治元年、明治新政府は、「王政復古」「祭政一致」の理想実現のため、神道国教化の方針を採用し、神仏分離令を発しました。勿論、この分離令は、仏教排斥を意図してたものではありません。ところが、分離令後、全国各地で「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」運動がおこり各地の寺院や仏具の破壊が行われてしまいます。神道国教化は、仏教界の協力がなくては実現困難な政策であるのに、この運動によりその準備段階の分離政策が頓挫してしまいました。明治5年の頓挫です。その後も、教育機関として大教院を設置し教導職に僧侶も任命するなどして神仏共同布教体制を整えましたが、今度は西洋諸国から「信教の自由」を求められるなど反発を受け、明治6年にキリスト教に対する禁止令を廃止し、同8年には大教院を閉鎖、同10年に教部省も廃止に至り神道国教化政策はここで放棄されました。国教化は断念です。しかも、明治の大日本帝国憲法では、文面上は信教の自由が明記されていました。
国家神道へ
然し、当初からの目指す方向は変わりません。明治政府は神道の国家管理を進めて行きます。「神道は宗教ではない」という見解が採用されるのです。政府は、「神社非宗教論」という公権法解釈に立脚し、神道・神社を他宗派の上位に置くことは憲法の信教の自由とは矛盾しないとの公式見解を示し、また自由権も一元的外在制約論で「法律及び臣民の義務に背かぬ限り」という留保がされました。(日本国内には、多数の「神道」がありますが、ここで語っているのは、皇室の祖先神とされる天照大神を祀る伊勢神宮を全国の神社の総本山とする「神社神道」、すなわち国家が他の神道と区別して管理する神社神道です。)この様にして定着させた国家管理は、宗教的な信仰と、神社と神社祭祀への敬礼は区分されていましたが、他宗派への礼拝を一切否定した完全一神教の視点を持つキリスト教徒や、厳格な政教分離を主張した浄土真宗との間には軋轢を生んだ面もあったようです。国の管理を少し具体的にみると、1899年の文部省訓令第12号「一般の教育ヲシテ宗教外ニ特立セシムルノ件」によって官立・私立の全ての学校での宗教教育が禁止され、「宗教ではない」とされた「神社神道」は宗教を超越した教育の基礎とされました。1890年には教育勅語が発布され、国民道徳の基本が示され、「神社神道」の事実上の教典となりました。「神社神道」は、後に「国家神道」と言われますが、宗教・政治・教育を一体のものにした事にみて至極当然の言葉だと想います。
政教分離と教育改革
 1945年12月15日、GHQは、政府に対し「神道指令」を発しました。この翻訳を行った際に、明治以降の神社神道について「国家神道」と訳したことから、この言葉が生れ現在も使用されています。神道指令は「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」と標記された覚書のことを指します。覚書は、信教の自由の確立と軍国主義の排除、国家神道を廃止、神祇院(じんぎいん:敬神思想の普及局)を解体し政教分離を果たすために出されたものです。これにより、日本という国作りの神話からはじまり天皇をたたえんとする教科書は全て焼き払われ、該当する日本史に関する授業も廃止されました。GHQは、第二次世界大戦中の神風特攻隊や爆弾を抱えたまま戦車に突撃してくるような青年の姿を見て、日本人の驚異的な滅私奉公の精神が国家神道から湧き出ていることを非常に恐れていたのです。1946年には日本国憲法公布による政教分離、同年の宗教法人法制定による各神社の国家護持体制から非国家的宗教施設への変更もありました。
 GHQが発し求めた効果が、敗戦後のこの節目を契機として現在のこの時代に至るまで長く続いているのです。大多数の日本人は、軍国主義を嫌悪し、政教分離を護持し、平和を願います。この、とても良い民意に至る歴史的な代償として、何を信仰していいかわからないし、何も信仰しない姿が表れ、それでも、祈りの心として、大切な節目には神事などを行う。そして一方で、元々、教義教典がない神道は、「教え」でなく、自らの心の声を聞き自問自答し続ける「道」だと解説される方がいます。今、神道は、時代に良く調和していると思います。